
不条理でさえ希望があると思える悲惨さと絶望。外国人で混雑する広島平和記念資料館。当時の写真と記事、手記の前に長蛇の列ができ、なかなか前に進めない。視点がマクロであればまだ見ることができるがミクロになると直視できない。いや、直視はできるが脳がその深部まで信号を送ることができない。要するに思考停止だ。(おまえはいつもそうだろう、とオレの友人たちは言う)
防衛大学校時代には、明日特攻で飛び立つ軍人の手記や大切な人への手紙に、感情が揺さぶられ、オレを覆う硬質な殻をブロックでたたき割られたような感覚を覚えたものだ。祖国のため、愛する人のためにする覚悟。不撓不屈。自己犠牲。それ自体またはその状況を美化することは危険だが、死と表裏一体となった生の極致だと思っている。
あの時のような感情が何かしら湧き上がると思っていたが、どうやらそこに行くまでに途中下車してしまったような感覚だ。以前あったオレの中の棘は全部欠け落ちてしまったのか?
穏やかな春の陽だまりのような心象をずっと求めてきたが、どうやらそこはあまりエネルギーが要らないらしい。
翌日、宮島にわたり、厳島神社で参拝した。千数百年も前に建てられた神社は荘厳で畏敬の念を抱く。
オレにしては久しぶりに、事象に圧倒された敗北感、不穏感があったが、夜の料亭で牡蠣、刺身などで賀茂鶴を4種類ほどグラスで試しているうちに、いつもどおりの脳天気にもどっていた。
